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工学系大学院生のオーストラリア留学奮闘記
オーストラリアはブリスベン、クイーンズランド大学での留学生活を綴ります。授業に研究、仕事探しやもちろん遊びも。



プロフィール
HN:
blue
職業:
神戸大学機械工学専攻大学院生
自己紹介:
学部でアメリカのUniversity of Washingtonに半年交換留学。
海外での楽しく新しい発見が忘れられず、大学院ではオーストラリアのUniversity of Queensland (UQ)にまた半年交換留学することに。

UQではこの短い1学期の間、研究室に入り経験のないコンピュータビジョンに関する研究を行い四苦八苦。授業も2つ履修していて中々にタフ。
でも、スキューバダイビングやロッククライミング、友達との交流など遊びも大事にしたい。

英語や海外の環境が好きなので、将来は海外で働きたいと思った。学期終了後のインターンシップを探すなどチャンスを広げるべく奮闘し、本気で海外就職を目指すかこの留学で見極めたい、というのが当初の目論見。さて実際はどうなることやら!?

好きな格言
「Simple is best」
「Do it yourself」
「Where there is a will, there is a way.」
「人事を尽くして天命を待つ」
「人を手段としてのみ扱ってはならない」カント
「即判断、即実行、即忘却」
「一期一会」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」鴨長明
「色即是空、空即是色」
「男に二言なし」

メールアドレス
studyau2008@gmail.com
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このブログは本記事をもって凍結すなわち放っておきます。
留学を終えた今となってはここに書くべきことは何もないからです。
関係のない話を混ぜてしまうよりも、このブログは純度の高い留学中の生の声をそのまま残しておきたいのです。
ほぼ自分向けに書いた日記状態でしたが、今まで見守ってくれてた方には感謝です。


まず今回の留学によって得られた成果を述べます。

1.大切な友達(主に留学生、アジア系)がたくさんできた。

2.修士論文の土台となる研究ができた。授業の質もよかった。

3.自分は自分の生き方をする、という決意ができた。
人生は短い、大切にしなきゃと切に思った。

4.外国の文化がすごく気に入った。特にファーストネーム
で呼びあうこと、敬語がないこと。日本でもこの文化的な
雰囲気をなんとか取り込んでいきたいものだ、と思った。

こんな感じかな?
留学をしてみたいと思っている方は迷わずするための準備をしたらいいと思います。
本当に楽しいし、色んなことが見えてきますよ。
また、いろんな業者を通すのはやめましょう、ボッタクリが多いので。
苦労も楽しみのうち、できるだけすべて自分で管理するという気概が必要だと思います。


次にクイーンズランド大学での研究成果、提出論文を公開します。
いや、まったく大したもんじゃないですが、自分がコンピュータビジョンについて素人だったこともあり、素人にはわかりやすい内容になってるかと思い少しでもお役に立つことがあればと考えてのことです。
テーマは、ステレオカメラを用いた自己位置同定(ビジュアルオドメトリ)に関する研究です。

オリジナル英語版
http://shinjiworks.web.fc2.com/myresearch/visualodometry.pdf
はしょり日本語翻訳版
http://shinjiworks.web.fc2.com/myresearch/visualodometry_jp.pdf

で、このpdfは新しく作ったホームページに置いてますんで、まだまだ工事中ですが、これからゆっくりコンテンツを増やしていこうと思ってますんでホームページの方もよろしく。
http://shinjiworks.web.fc2.com/

で、ブログけっこう面白いなぁ続けたいなぁと思ったので、これからは研究、就職、ゲーム制作などのネタメインで、また日記調で書いていくためのブログを作りました。こちらも興味あればよろしく。
http://shinjiworks.cocolog-nifty.com/blog/

というわけで今まで見に来てくれた方ありがとうございました。
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No.103   thoughts...
日本に帰ってきてみて、なんか違和感、居心地の悪さを感じることがある。

敬語っていうのはやっぱり自分には向いてないな。嫌いだ。
まず個人的には年上の人と仲良くなりにくい。さんづけで呼んでいては、やはり親しい感情を持つのが難しくなるし、敬語で話すというのはどうも相手を上に見てしまう癖がついてやはり親しみを感じにくいし、歯がゆくて、めんどくさい。
自分の場合、年下の人とは仲良くなれることが多い。とりあえず自分は普通のことばで話せるので、年下の方が別に敬語にまったく苦がなければよいし、でも本当によい関係は敬語を使わないように言って、お互いタメで話すこともできるから。

第一、敬語を使うかどうかという基準は極めて曖昧である。たとえば、あるバイトを始めたとして、そのバイトの先輩というのが年齢としては下だったとする。バイトの立場としては上で、年齢としては下、さて敬語を使う?という話。仕事に就いても一緒。あとは、俺の場合、一旦大学卒業してから専攻変えて学部に編入しているので普通より年を食っている。研究室に配属になって先輩とはどう接する?とか考えることが多かった。
まぁ最初は敬語から入って様子を見ながら仲良くなればタメで自然に話せるようになっていくのだけど、そのメンドクサイこと。

なんだって年齢で、立場で、人への話し方を変えるのだろう。
そりゃあ、尊敬する人に対して丁寧な対応をするのは当然だ。
しかし年齢、立場という基準で社会通念上強制されてしまうことに問題があるように思う。
尊敬の念などなくても尊敬語を使う。
尊敬の念があっても年下には尊敬語を使わない。
私たちは先生に対して、老人に対して、友人に対して、子供に対して、言葉を使い分ける。
それが当然だと思ってる。
その原因は、敬語というものが、言葉として存在してしまうからだ。
日本人という性格が日本語を作ったとも考えられるけど、このような日本語という枠がまた日本人という性格を規定してしまう面もあると思うのだ。

ここでそんな例を色々挙げてみたい。
まず敬語を使う相手に対しては自由な意見がいいづらい。敬語を使っていると、どうも相手が上で自分が下という感覚を抱いてしまい、自分の意見を抑えて相手を立てようとしてしまうのは不思議である。
逆に自分が敬語を使われていると調子に乗る。
それが日本において、世代、立場を超えた平等な議論というものを難しくしているではないだろうか。

大体敬語で怒る気にならないでしょう。でもタメで怒ったら「なんだ、その口の聞き方は!」てなりますよね。
いやいや。口の聞き方じゃなくて内容で返してくださいよ。
そんな意味で、子供にはストレスがたまったり、大人を無条件に偉いと思ってしまう環境が整っているんじゃないかと思うわけだ。
子供っていうのはすごい力を持ってるよね。発想力豊かだし、大人より正直だし、行動力あったりして、大人が見習うべきもの、忘れていたものを思い出させてくれるものを持っているわけだ。
それでも子供という態度で(言葉で)接する。子供は尊敬しなくていいってこと?

子供が大きくなって中高生くらいになると、見かけはもう大人になってくるので、初めて会ったときとかは、年下と見て子供への言葉で話すか、大人として接するか(敬語)迷うよね。
見かけで判断するのはどうだろうか。
されるのはどうだろうか。
子供の思春期とかも日本では外国に比べてすごい深刻なんじゃないかとか思ったりする。

また以上で述べたように敬語っていうのはまず社会通念上必要とされる割に、その基準が曖昧かつ即座に見てとれないものだ。年齢や立場なんて初めて会ったもの同士でわからない。だから必然的に敬語を使わなければならなくなり、見知らぬ人への壁が厚くなってしまうのではないか。
仲間とはやたらと仲いい割に、見知らぬ人に対しては、無頓着。電車の中でもみんな他人に無関心。
仲間には礼をわきまえている割に、見知らぬ人に対してはそこにいないように振舞う無礼、マナー知らず。ジベタリアン。

また、丁寧語、尊敬語というのは言葉をむやみに長くするね。
意味のある情報がないわりに、無駄に長い。
言語構造がシンプルでなくなってしまうのだ。

大体、「すいません」「申し訳ありません」「ありがとうございます」「失礼いたします」「お疲れ様です」「~させていただきます」
とか長げぇ!て思ってしまうんですね。てか噛むんですけど!
英語では「Sorry」「Thank you」「See you」とか簡潔に表現できるのになぁと思ってしまうわけです。

英語には敬語というものがない。
年上でも年下でも立場の違いがあっても関係ない。同じ言葉で話す。
そうするとあら不思議、日本で育った日本人の俺でも年上の人と対等に話せるし、対等と感じるのである。そして普通の友達と同じように親近感がわくのだ。実際に年齢の違う友達がいっぱいできる。というかそもそも正確な年齢を知らない。
日本では知り合った人に立場をはっきりさせるために「何歳ですか」なんて聞くけど、向こうではそんなこと聞くことはあまりない。聞く必要がない、何歳だからって対応が変わることなんてないんだから。聞くなら、大学なら何回生かってことだね。
履歴書にも年齢を書かない。ちなみに写真もはらない。そういうことで差別してはいけない社会なのである。

見知らぬ人への壁が驚くほど低い。どんな場所でも気軽に話しかけられる。それは、ひとつに敬語があるからってことが関係してるんじゃないかな。そう思う理由は、自分も海外ではとてもフレンドリーになるからである。
それでこんな文化がいいなと思って日本でも実践しようと思って帰ってきても、日本の雰囲気に押しつぶされてやっぱり自分も無関心になってしまうんだよね。まぁ自分なりにうまく融合したいとは思っているんだけど。

さて、この見知らぬ人への壁が低いということより、海外では友達(彼氏彼女)が非常に作りやすい、と思う。自分が仲良くなった友達を考えても、様々なきっかけ、場所でたまたま会った。
日本では、バイトだとか、クラブだとか、学校で同じクラスだとか、何か一緒のグループに所属していないと仲良くなることはほとんどない。その他の出会いは男女の間ではナンパと呼ばれる。

その意味では、英語圏(アメリカ、オーストラリア)では日常がナンパである。だって、きっかけは出会うところどこにでもあるんだから。男女に限らず話しかけたいひとに話すのは当然だろう。それで仲良くなって友達になったりする。
日本では「出会いの場がない」と嘆くけれども、実際に一日を振り返ってみればたくさんの男女に出会ったでしょう。よく会う異性もいるでしょう、同じマンションの住人とかね。
そして一緒にエレベータ入ったりしたら、英語圏では、まず挨拶はできるだけするよな。Hi,ってね。
そしてなんとなく反応がいいときとか、次にまた鉢合わせたときは、また会ったねと言って軽く会話するかもね。
そしたらもう友達だね。
出会いは毎日の中にあるわけだ。

そんなことで、日本では友達とくに異性の友達なんかは中々できないの性質なのに、海外では男女限らず友達ができるのが自分にとって嬉しいな。

あともうひとつ述べておく。
日本人は集団主義で、何かするとき集団で行動するするけど、欧米人は個人主義なため、一人で行動することが多く孤独を感じると思うかもしれないけど、これがそうでもない。
みんなが自分は自分として行動しており、他の人もそうしているわけだから、一対一の関係で容易に話しかけられるし、合うなと思った人とはすぐ仲良くなって一緒に行動もするさ。
でもその人と常に一緒に行動するわけでもない。一緒にいたい人とそのつど一緒にいたり、みんなで集まりたいときはみんな呼ぶし。
みんなを集めるとパーティなんか開いたりするけど、集まる人の層にびっくりする。もう、何つながりとかあんまり関係なくてそれぞれ友達が友達を呼ぶ。日本ではそれぞれ知り合いかとか考えてメンバーを考えたりすると思うんだけど、向こうではそれが(ほとんど)ないのである。
日本では知らない同士で男女で集まることを合コンと呼ぶ。

この意味では、英語圏では、なんの変哲もなく開いたパーティとか食事とか遊びが合コンである。
別に合コンとかの意識はまったくないが合コン的出会いの効果のあるところがミソである。
友達の友達は自分の友達となったりしてネットワークが広がっていくのだ。

日本ではグループというものを作ってそこに所属してしまうから、そこから出られなくなる、他のグループと交流がとれない、とりにくい、またグループの中で気の合わないやつがいてもなんとか合わせないといけないということが起こってしまう。
いじめとか、嫁姑の争いだとか、そういうことが影響しているんだろう。
政治でもそうかも、派閥間の争い、派閥内の軋轢、などを海外と比較したら面白いかもしれない。

はじめから「あなたはこのグループね」なんてものがそもそもなければ、自分が勝手に有機的なグループを作り上げることができるのだ。

アメリカで、オーストラリアで、人生でこれほど自由を感じたことはなかった。帰ってみて、あぁやっぱりあそこで過ごした日々は幸せだったな、夢のようだったなとしみじみ思ってしまう。
生きるということがシンプルな世界だったなと思う。

そして以上のように、帰ってから感じた日本の居心地の悪さを書いた。
自分としては、普通とは違っても、なんとか自分の居心地のよいように、日々の生活を見直していきたいと思っている。そして、この感覚を忘れてしまわないように、「普通」になってしまわないことを切に願う。

自分は日本で生きていくことを選択した。
それでも、日本で仕事するのはストレスが溜まってどうしようもないとか、どうしようもなく自分に自信を失ってしまったとき、海外へ逃亡するかもしれない。

少なくとも、逃げてもいいんだよ、何して生きたっていいんだよ、なんとか生きていけるくらいのスキルはある、と思えるようになったことが、今回の留学で得たことなのかもしれない。