No.29   Event of a Christian Club
Category : 生活
今日は溜まっていた洗濯物をまとめてやっつけ、畳んで、日記を書いて、ブログ布教活動をして、オーストラリアの有名なチョコレートビスケットTIMTAMをコーヒー啜りながら嗜んで3時ごろまでくつろいだ。
それから、UQのクリスチャングループCCM?のイベント、Multicultural Fiestaに行ってきた。
初めだからあまり宗教色ないイベントかと思ったら、説教もあり、賛美歌、祈りもあり、結構本格的にクリスチャンの集まりになっていた。
説教といっても日本人が想像するような牧師が聖書をひたすら説くようなものではなくて、話は非常に面白く、笑いが絶えない。
テーマは「Unique」。
みんなそれぞれ違う文化をもって、違う価値観をもって、みんなユニークな存在。
でもみんな根本では似ている。
その根本は「みな誰かに受け入れられたい」ということ。
神が自分を常に受け入れてくれる。今まで犯したどんな罪も許してくれる。
そういう流れだ。
賛美歌も、荘厳な歌などでは全くなくて、本当にポップなクリスチャンソングで、ギターやドラム、ボーカルが前に出て、ライブさながら。
全体としての内容は、文化に関するクイズ、それぞれの国の衣装を着ての衣装コンテスト、説教、歌という感じ。
ちなみに断っておくとおれはクリスチャンではない。
でもUWでもクリスチャングループのイベントに何度も参加したりしていたので、UQのグループはどんなんかいなと興味があり参加してみた次第だ。
結果。イベントは非常に興味深かった。しかし若干、、、というか結構、、、クリスチャンでないニューカマーにとって初めてのイベントにしては、宗教色が強いというか、配慮が少ないように感じた。
なんというか、自分はクリスチャンではないとは言えないような雰囲気とか、説教中に一緒に声を出させたるする所とか。
神を信じるか信じないかは別にして、クリスチャンが心がけることというのは結局道徳であり倫理なのだと思う。概してクリスチャンの行いは清く正しく、いい人が多いと思う。
見習わなければならないことが多くあり、聖書が示唆する道徳基準というのも全くもって、人間が持つべき一般的な道徳基準というものにほとんどマッチしていると思う。
だから俺はクリスチャンの出す結論「どのように生きるべきか」という結論に納得する。非常にいい生き方だと思う。
それでもやはり、おれは神を信じることはできない。(今後信じることになるかはわからない)
神を信じるという根本なくして、「このように生きるべき」という同じ結論に達することがなぜできないとクリスチャンは思っているのか、俺は不思議に思う。
神を信じるといったって、世界には神は五万といる。
クリスチャンに、「ではなぜキリスト教でないといけないのか」と聞くと要領を得ない。
結局どのような神を信じるとしても、結論はほとんど同じようになるのに。
そう、説教士が言ったように、「誰かに受け入れられ」、「心の安定」を得るために生きること。
結論は同じなのに。
そしたら、どんな神も信じてなくたって、同じような結論を得ることはできるのに。
俺は現在のところどんな神も信じていない。
いや、どこかで信じているかもしれない。
要するに、いるかわからない。
神に祈ることもよくある。
でもそれはいるかわからないソレに語りかけているのである。
別にいなくたっていいのである。
自分の奥深くに語りかけているようなものである。
そうすると、自分がどうすればいいのか見えてくることがある、ように感じる。
また思うことに、クリスチャンになってしまうと、クリスチャンで固まってしまいがちだ。
クリスチャン以外の人と積極的に交流しなくなるのはどうだろう。
自分とは違うものを信じていても、同じような考え方を持っている気の合う人と、クリスチャンは距離をとってしまう。
ようにおれは思う。
(今までの印象、もちろんグループによっても大分雰囲気が違うとは思う)
まあ、クリスチャンでない人がクリスチャンと距離をとってしまうのもあるかな。
これは卵が先か、鶏が先か。
神というのは本当に深いテーマで、これから自分はそれに対してどうのように考えるか、しっかりとした考えを持てるようになりたいと思っている。
とりあえず、知り合ったクリスチャンにまたイベントに誘われそうだけど、ずるずる行くと、こっちも苦しく、向こうにも申し訳なく思うので、多分もう行かない。
それから、UQのクリスチャングループCCM?のイベント、Multicultural Fiestaに行ってきた。
初めだからあまり宗教色ないイベントかと思ったら、説教もあり、賛美歌、祈りもあり、結構本格的にクリスチャンの集まりになっていた。
説教といっても日本人が想像するような牧師が聖書をひたすら説くようなものではなくて、話は非常に面白く、笑いが絶えない。
テーマは「Unique」。
みんなそれぞれ違う文化をもって、違う価値観をもって、みんなユニークな存在。
でもみんな根本では似ている。
その根本は「みな誰かに受け入れられたい」ということ。
神が自分を常に受け入れてくれる。今まで犯したどんな罪も許してくれる。
そういう流れだ。
賛美歌も、荘厳な歌などでは全くなくて、本当にポップなクリスチャンソングで、ギターやドラム、ボーカルが前に出て、ライブさながら。
全体としての内容は、文化に関するクイズ、それぞれの国の衣装を着ての衣装コンテスト、説教、歌という感じ。
ちなみに断っておくとおれはクリスチャンではない。
でもUWでもクリスチャングループのイベントに何度も参加したりしていたので、UQのグループはどんなんかいなと興味があり参加してみた次第だ。
結果。イベントは非常に興味深かった。しかし若干、、、というか結構、、、クリスチャンでないニューカマーにとって初めてのイベントにしては、宗教色が強いというか、配慮が少ないように感じた。
なんというか、自分はクリスチャンではないとは言えないような雰囲気とか、説教中に一緒に声を出させたるする所とか。
神を信じるか信じないかは別にして、クリスチャンが心がけることというのは結局道徳であり倫理なのだと思う。概してクリスチャンの行いは清く正しく、いい人が多いと思う。
見習わなければならないことが多くあり、聖書が示唆する道徳基準というのも全くもって、人間が持つべき一般的な道徳基準というものにほとんどマッチしていると思う。
だから俺はクリスチャンの出す結論「どのように生きるべきか」という結論に納得する。非常にいい生き方だと思う。
それでもやはり、おれは神を信じることはできない。(今後信じることになるかはわからない)
神を信じるという根本なくして、「このように生きるべき」という同じ結論に達することがなぜできないとクリスチャンは思っているのか、俺は不思議に思う。
神を信じるといったって、世界には神は五万といる。
クリスチャンに、「ではなぜキリスト教でないといけないのか」と聞くと要領を得ない。
結局どのような神を信じるとしても、結論はほとんど同じようになるのに。
そう、説教士が言ったように、「誰かに受け入れられ」、「心の安定」を得るために生きること。
結論は同じなのに。
そしたら、どんな神も信じてなくたって、同じような結論を得ることはできるのに。
俺は現在のところどんな神も信じていない。
いや、どこかで信じているかもしれない。
要するに、いるかわからない。
神に祈ることもよくある。
でもそれはいるかわからないソレに語りかけているのである。
別にいなくたっていいのである。
自分の奥深くに語りかけているようなものである。
そうすると、自分がどうすればいいのか見えてくることがある、ように感じる。
また思うことに、クリスチャンになってしまうと、クリスチャンで固まってしまいがちだ。
クリスチャン以外の人と積極的に交流しなくなるのはどうだろう。
自分とは違うものを信じていても、同じような考え方を持っている気の合う人と、クリスチャンは距離をとってしまう。
ようにおれは思う。
(今までの印象、もちろんグループによっても大分雰囲気が違うとは思う)
まあ、クリスチャンでない人がクリスチャンと距離をとってしまうのもあるかな。
これは卵が先か、鶏が先か。
神というのは本当に深いテーマで、これから自分はそれに対してどうのように考えるか、しっかりとした考えを持てるようになりたいと思っている。
とりあえず、知り合ったクリスチャンにまたイベントに誘われそうだけど、ずるずる行くと、こっちも苦しく、向こうにも申し訳なく思うので、多分もう行かない。
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